上竹田分教会の歴史
<創立の経緯>
兵庫県丹波國氷上郡前山村の内上竹田の津田達三郎(初代会長の父)の実姉於ことが天田郡下豊富村の字荒川の芦田徳佐衛門に嫁ぎ、その長女ゆうが15才の頃より病に罹り、百方の看護に力を尽くせども平癒せず、両親悲嘆に募るる。当時医師の進めるままに転地療養を成さんと親戚なるを辛い同女の保養方を達三郎に委託されたり。
達三郎は彼女を迎え親しく看護に衝る。これ明治19年の事なり。以来良医を招き、専ら神様の御話を諭さるる事最も詳らかに、又最も深く、面々として余韻長く列座の者等しく感極まって言う事知らず。以来、一同は翻然悔悟し専心神の御教えを堅く守れば霊験現れ利益に浴し梢々軽快に赴くを見る。全く愁眉を開けり
越えて、4月3日、細見利三郎氏、遠阪村足立金蔵氏の出張となり、具に教理を説き聞かされたれば、誰言うとなく聞きつけ集える一同、(上竹田村、荻野甚右衛門、同芳蔵、同仲蔵、同岩蔵、同宇吉、同治左衛門、同儀助、同米蔵、片瀬弥八、同伊三郎、同萬吉、同甚吉の13氏と津田家の者)感服せざるものなかりき。一同は弥弥益々意を決し神教を奉ぜし。日ならず彼女平癒す。於慈衷心神の利益に拝謝し、講社を結ぶ事を決し、小山、細見両先生により、左記の数氏を左の如く指名され、茲に初めて講社の設置をなし前途の発展を企とす。惟れ明治20年4月18日のことにして当出張所の根源とす。
講元 津田達三郎
講脇 荻野甚右衛門
周旋 荻野 芳蔵
荻野 仲蔵
片瀬 弥八
明治20年11月、講元・津田達三郎は長男・清太郎に家督相続さしめたれば、同人講元を命ぜられ、此頃に及んで前記ゆう女は神の利益を以て旧体に復し居るを辛い、遠阪村足立亀助先生(福知山支教会初代会長)の勧めにより、明治21年10月、清太郎、ゆう華燭の典を挙ぐ。
明治20年4月 講元周旋等の奔走により徳尾村谷上・高雄例三郎当講社に加入す。以来同村に加入者続出し、同氏を余田組講元に命ぜられる。同月遠阪村足立近蔵先生及び津田清太郎の奔走により、吉見村の内市島・魚住儀蔵加入され引き続き加入者多く、魚住を吉見組講元に命ず。(現市島分教会の礎なり)。荻野甚右衛門の奔走により、下竹田村の石原・今井治郎吉加入し、次第に加入者多く、今井を下竹田村東組講元に命ず。(現石原分教会の礎なり)荻野宇吉の奔走により鴨庄村の内上牧・吉住和太郎加入し加盟者多く続き、依り天田郡多保市・大槻太一を多保市講元に任ず。鴨庄組講元・吉住和太郎の尽力により、天田郡細見村の中出・細見惣三郎加入し追々続々依って細見を細見組講元に任ず。
斯くの如く、元の神を聞いてより1月足らずにて講(上竹田)の結成を見、これより信心篤志の者直ちに上竹田村を中心に隣接せる村々恰も燎原に火を放つが如く布教活動を展開し信仰の炎の輪が爆発的に広がった。
前述の講の結成を見た村以外にも下竹田村、美和村、多利村、小多利村、国領村、大路村、天田郡六人部村と輪が広がる一方であった。明治30年前後には上竹田組、余田組(徳尾組)、上田組(吉見組)石原組(川東組)鴨庄組、多田組、細見組、多保市組の8組の講を救う。
また教導職者25名、講社250戸、信徒数千有余りを数えるに至る。茲に於いて統括上甚だ困難に感ずること少なからず、依って明治30年4月8日兵庫県氷上郡前山村ノ内上竹田村175番地に津田清太郎を所長と定め、清太郎外45名連署を以て出張所設置願を御本部に提出し、明治30年4月10日教第1536号を以てお許し願い出た。
明治30年4月10日山東出張所設置御願
「さあさあ、尋ねる事情、さあへ、事情は願出」
6月24日丙第1319ノ2号を以て認可いただくと、本部へ月次祭他例祭の祭典日を願出た。
明治30年7月19日山東出張所の儀月次祭毎月旧8日霊祭
旧15日設教日3日13日23日旧本月28日心祝外に御紋鳴物一切御許御願
「さあへ、尋ねる事情く事情は願通りへ、さあへ、ゆるしおこうへ」
とのお許しを頂き、開筵式も賑々しくつとめ、ここに山東出張所の誕生を見たのである。
明治4年6月12日、氷上郡前山村之内竹田村1067番地にて、田を7反程所有していた自作農津田達三郎ととめの長男として生まれた清太郎は学業を終えると20才まで村役場の書記として勤めていた。
明治20年、同家に病気保養に来ていた京都府天田郡下豊富村字荒川村芦田徳左衛門の長女ゆう(父達三郎の実妹於ことの娘)の身上より入信した父・達三郎は同年11月清太郎に家督を譲り、講元となった。その後信心篤志の人達と共に布教に奔走し、明治25年10月、前年に設立を見た上級福知山支教会役員に命ぜられる。その後講元まで勤めた達三郎は清太郎の白熱の信仰に気遅れしたのか次男・重郎を連れ隠居する旨申し出た。村でも2本の指に入る財産家であったが、持ち山の木にて双方の家を新築し、山林田畑を分け隠居の身となる。
明治30年、新築なしていた農家を神殿と棟殿なく改築し、4月8日教会設置を願出る。4月10日はおさしづを以てお許しをいただく。
清太郎は布教と共に上級伏せ込みを第一義と心し懸命に勤める中、明治31年、年若くして上級福知山支教会事務所工事掛を拝命し、普請に専心し勤めていたが、明治31年8月26日(陰暦7月9日)上級にて身上をお返しし、月次祭の翌日当出張所に帰ったのである。所長拝命後僅か一年余りの事である。
初代所長出直について、上級の普請中の事ゆえ親神様の思召を慮ばかり、上級より神意を伺うべく願い出た処
明治31年9月15日山東出張所担任津田清太郎(28才)福知山支教会新築工事に監督到度候処死去に付一同心得迄御願
「さあへ、尋ねる事情く、さあ尋ねる事情、普請順序みないさんだいり中にいきなりである。いさむ中いずむおおいのほかにじゃ、なあ一つあらたかへ よぎなく事情通り、だんへ 事情運んで重なる。十分の理にあるこう云う事である。又思うやない。ぜひなくようよふの道をしょうらい理を通ったのも同じ事、あと一つのたのしみもたさにゃならん、しゅん事情たづねる処、あんな中どう云う世上一つの理を見れば、よわいなあ、ころっとちごうで。この道にそふて通れば、末代の理によせてやるがよい」
とのおさしづを賜った。
<初代会長(所長)略歴>
・氏名及び生年月日
津田清太郎 明治4年6月12日生
・両親名及び続柄
津田達三郎 天保14年 1月10日生
と め 弘化 4年12月 1日生 長男
・最終学歴
明治16年12月 下竹田小学校中等科卒業
・教師補命
明治25年1月24日
・会長就任年月日
明治30年4月9日
・辞職年月日及び理由
明治31年8月26日 出直しによる
※教歴
明治24年 4月15日 授訓拝戴
明治25年 1月24日 教導職試補拝命
明治25年10月 福知山支教会役員拝命
明治30年 4月10日 山東出張所拝命
明治28年 4月10日 権訓導拝命
明治31年 福知山支教会新築工事掛拝命
明治31年 8月26日 同所長辞職
<二代会長時代>
初代の所長には出直当時7才の長男・新之亮を頭に3才の礼之亮、1才の健之亮と3人の子供をお与え頂いていたが、後任の選定に思い巡らすとき、新之亮は幼少であり、役員の中より出す運びとなった。当時の役員達は皆それぞれに真剣な道を求めて、甲乙の付け難い人材であったので、後任問題は難航した。そうしてついには、上級福知山支教会二代会長・足立清次郎先生に兼任して頂く事となった。
かくして明治32年3月3日、担任変更願を本部に願い出た処
明治32年3月9日西宮部内福知山部内山東出張所担任足立清次郎に数度御願
「さあへ、尋ねる事情へは、それへ事情、又一時もってからと
云ふ、尋ねる事情は、それぞれの理にゆるしおかう」
二代所長にご就任頂いた足立清次郎先生は上級福知山支教会の会長という重責を兼ねておられた。当時支教会では、明治31年6月18日教職舎兼仮神殿新築と引き続いてお許しを頂かれ、次々と新築工事に取り掛かられたので教会離れる事は出来ず、とう出張所へは、毎月の8日の月次祭をお勤め頂く程度であったが、新之亮の成長するまで変則的ながら、初代所長の妻ゆうが留守を守ることとなったのである。本部所長御信者の修理丹精の次に布教の上にもあまり手薄である上から、鴨庄組講社の講元吉住和太郎が出張所に入り込む旨申し出たので、おさしづを仰ぐと
明治33年2月28日、芦津部内山東出張所役員吉住和太郎家族共出張所へ引っ越し御願
「さあ/\、尋ねる事情く一日の日をもって尋ねる一つの理、将来末代
の理とも云う、尋ねる一つの日の理に許しおこう」
とお許しいただき、出張所に家族とも引っ越し庶務係として勤める事となった。
明治40年3月8日新之亮は京都府天田郡下豊富村荒河・芦田徳左衛門の次女・きみと結婚した。津田家にとっては暗闇に一条の光明が差し込んだ如く慶びに湧いたのである。
明治42年4月17日、山東出張所を三東宣教所と改称した。
かくするうち足立清次郎先生が大正3年11月16日出直され、津田新之亮を三代会長と定め御本部に願い出、大正4年10月29日お許し頂く。
足立清次郎先生には福知山支教会に於いても普請等で種々御用多い中、部内の当教会の上に事情治めの為とは申せ親心の上から、17年間の間御苦労を賜り、非常に勿体無い事であった。
<二代会長(所長)略歴>
・氏名及び生年月日
足立清次郎 明治10年6月25日生
・両親名及び続柄
父 足立 亀助(初代会長)
弘化2年11月28日生 明治28年4月23日出直
母 さわ
嘉永4年8月1日生 明治22年7月8日出直
・おさづけの理拝戴
明治28年12月23日 初席
明治29年8月22日 おさづけの理拝戴
・教師補命
明治28年5月6日 教導職試補
・会長就任年月日
明治28年12月18日
・辞任年月日及び理由
大正3年11月16日 身上出直により
※教歴
明治28年 5月 6日 教導職試補
明治28年 5月30日 訓導補命
明治28年12月18日 福知山支教会二代会長拝命
明治28年12月23日 初 席
明治29年 8月22日 おさづけの理拝戴
明治32年 3月 9日 部属山東出張所二代所長拝命
明治36年 5月25日 権少講義補命
明治40年 9月23日 少講義補命
明治40年 1月10日 権中講義補命
大正 2年11月27日 京都教務支庁主事任命
大正 3年11月16日 福知山支教会二代会長辞任
大正 3年11月16日 部属三東宣教所二代所長辞任
<三代会長時代>
三代会長・津田新之亮は、明治20年より入信し講元として熱心に布教していた津田清太郎・ゆうの長男として明治23年11月25日、兵庫県氷上郡前山村の内上竹田村に生まれる。
新之亮が尋常小学校に入学した年、山東出張所が設立され、父清太郎が初代所長として勤めていたが、1年余りで上級福知山支教会新築工事の普請責任者として勤めていた処、突然満26才にて出直し、月次祭の翌日変わり果てた姿で教会に帰ってきた。実に新之亮7歳の時である。残されたのは母ゆうと弟・健之助、礼之亮の母子4人であった。
この後、後任問題難航し、新之亮の成長を待つべく上級福知山支教会長足立清次郎先生が兼任下さる事となった。当時上級では移転すべく教職舎、神殿、教祖殿新築に取りかかられ、多忙極まりない状態であったので、母・ゆうを始め役員達にて留守をお守りした。
こうする中、尋常小学校を卒えた新之亮は福知山町の呉服屋へ丁稚奉公に出た。奉公先が上級に近いので時々参拝させていただき教理を聞かしていただき、父の早世や弟の常人でない態度に思いめぐらすとき、津田家の因縁を悟り、自己の因縁を自覚するに至る。
明治40年、初代所長亡き後の津田家に大きな灯りがともった。母・ゆうの実家より従兄弟に当たるきみを迎え、3月8日16才にて新之亮が結婚したのである。その後新之亮は明治43年12月に兵役にでるまで、上級福知山支教会に住み込んだのである。 この住み込みが後の新之亮の信仰を支えたのである。住み込み当時、ある先生より顔を合わす度に顔に痰を吐きかけられ、その度に「有り難うございます」と言って通り、そのお陰で低う通らせて頂けると喜んだのである。
明治43年12月より明治45年11月まで篠山歩兵連隊に入り、退営を待ちかねたように教会へ帰ると布教に励んだ。
大正2年10月25日に授訓を頂いた。
大正3年11月11日二代所長を兼任下さっていた足立清次郎先生が出直され、後任として新之亮を定め、大正4年10月29日お許しを頂いた。所長就任前後の数年間面白い程おたすけが上がったのである。信者の丹精はもとより、すでに道の伝わっている処へはより足を運び、信者の少なかった六人部村、美和村にも道を伸ばし、めずらしいたすけをどんどんあげていった。その頃、身上御守護頂いた者達の寄進による物が今でも現存している。しかし、その後全くおたすけが上がらなくなったのである。
この事について新之亮は
「儂は福知山において貰とる時によく痰を吐きかけられた。そやけど自分の親が早うに死んだ事やらいろいろ考えたら腹が立たなんだ。教会に帰っておたすけに行くようになったら面白いほどおたすけがあがった。とにかく病人さんの前であしきはらえとやったらたすかった。上級で痰を吐きかけてくだはった先生にほんまにおおきにと思たわ。それからだんだんおたすけがあがっていったらしまいに自分がたすけたような気になってな、神さんがたすけてくだはっとんのにな、高慢になったんやなあ。それからだんだんおさづけを取り次いでも御守護頂けなんだ。お前達も気を付けよ、人間がたすけんのと違うで、神さんがたすけてくだはんのやで、分かっとるつもりでもあんまりたすけて頂けるんでついついなあ」と晩年述懐していたものである。
明治24年頃より道が伝わっていた多田村を中心とした多田組講社が信徒数の激増により統括上困難を覚える様になったので、大正8年3月、まず神殿建築とりかかり、兵庫県氷上郡春日部村字多田1111番地に村上亀之亮を所長と定め春多宣教所設置を願い出て、大正8年9月17日お許し頂き、初めての部内教会設立を見たのである。
大正11年には鴨庄村に伸びていた鴨庄組講社が信徒戸数121戸、教師数8名に及び、折からの教祖四十年祭の全教的な倍加運動の波が鴨庄村にも押し寄せ、兵庫県氷上郡鴨庄村上牧908番地の1に細見組講元・細見惣三郎を担任者として鴨庄宣教所設置を為すべく本部に願い出た処、大正11年5月17日お許しいただいた。
大正14年6月11日、春多宣教所初代所長村上亀之助が出直した。後任に妻りょうが大正14年7月8日お許しを頂き二代所長に就任した。
大正15年には鴨庄宣教所が信者・荻野勇太郎より、悟りを受けて合祀していた家の返却の申し出を受け、頭を悩ませていたが、鴨庄241番地に土地をお与え頂き、神殿並びに教職舎新築を願い出、12月16日お許し頂いた。
こうして部内教会を2カ所お与え頂き、喜びの中教祖四十年祭を迎えさせて頂いたのである。
昭和9年1月28日三東宣教所を上竹田宣教所と改称する旨お許しを頂いた。
新之亮ときみの間には、明治44年1月8日長男・誠之助、大正3年1月8日長女・春枝、大正4年9月19日次男・健次、大正6年11月12日次女・克美、大正9年2月20日三男・道男、大正11年1月3日三女・初美、大正12年11月5日四男・保男、大正14年11月15日四女・政枝、昭和3年1月3日五男・忠男、昭和5年3月8日六男・信男と次々にお与え頂いたが、大正3年2月22日長女・春枝(1ヶ月)、大正6年2月26日次男・健次(1才5ヶ月)、大正7年9月11日長男・誠之助(8才)、大正9年2月8日次女・克美(2才2ヶ月)がそれぞれ出直し、また大正8年8月13日には弟・健之亮も出直している。この様に部内教会設立を前後に次々と我が子を引き取られた。
更には昭和10年には共に苦労を分かち合ってきたきみが、六男・信男の出産の時の産後の肥立ちが悪く床に就くことが多くなり、8月12日身上をお返しした。また昭和13年10月1日には、津田家の入信の緒となり、教会を頂いて間もなく初代が出直し、婦人の身乍ら教会の留守役として勤め、新之亮の所長就任後は陰の支えとなり、ある時はなだめ、ある時は諭して会長として育てていった母・ゆうが身上をお返しした。新之亮にとって子供、妻、母と如何に因縁とは申せ、神様に引き取られた胸中はいかばかりであったろうか。津田家と村全部の葬式との列数がひきあった。この一連の大節にて去り行く信者もあった。
年は前後するが、昭和11年、福知山支教会長・足立津禰先生の勧めで新之亮はきみ亡き後、当教会に住み込んでいた氷上郡徳尾村の余田俊三の長女・まさのを妻として迎えた。傷心の新之亮も幾分か心が安まった事であろう。
昭和14年8月28日福知山支教会が分教会に昇格されるにつき、当宣教所も上竹田支教会に昇格改称の旨お許し頂いた。
昭和16年3月28日、鴨庄宣教所初代所長・細見惣三郎が88才にて出直した。
同年3月31日を以て、宗教令により分教会と改称することになり、上竹田分教会と改称した。
同年鴨庄分教会初代所長出直後、宣教所設立当初より財産を納消し住み込み、移転後は留守役として勤めていた南初蔵が二代会長として就任した。
新之亮、まさのの間には昭和13年2月1日長女・節子、昭和15年6月1日は長男・弘司、翌16年11月10日次男・正義、昭和18年1月3日次女・千代子、25年11月8日三男・邦男とお与え頂いたが、やはり津田家の因縁のなせる業か、昭和15年12月24日長男・弘司(6ヶ月)、16年12月19日次男・正義(1ヶ月)、18年2月9日次女・千代子(1ヶ月)がそれぞれ1才未満で出直し、又きみとの間の政枝が19年6月19日(4才5ヶ月)、更には弟・礼之亮が21年1月21日出直した。
引き続き肉親の出直を見せて頂き、若い時に自家の因縁を自覚ししていたつもりの新之亮ではあったが、この苛酷とも申すべき親神の与え給うた試練がどの様に心に映り悟っていたが知るすべもない。晩年に通ってきた道中を火鉢に手をかざしながら話すのを楽しみとしていたが、出直した子供のことについては一度も譲らなかったのを見ても諾けよう。
大東亜戦争中には新之亮は何度も炭坑奉仕に参加し教会を空ける事が多かった。此の前後信者の中に道を離れる者があった。原因としては、教会に打ち続く因縁の姿に恐れた者や会長不在により修理丹精が行き届かなかった点にある。申し訳ない事である。
かねてより、上級より神殿普請との声を頂きながら、親の声に添わして頂けずに通って来たが、明治20年代に建てられた藁葺きの農家を改築して神殿としていたが、台風の度毎に損壊が激しく、信者達何度も談じ合いを重ね、神殿建築は無理ながらも屋根を吹き替えする事に決した。昭和35年2月26日お許しを頂き、4月8日奉告祭を取り行った。
昭和39年、鴨庄分教会に於いては南初蔵が会長として勤めていたが、老齢の為と後進の育成の上から長男・秀男に担任変更する様に勧め、7月26日御本部のお許しを頂き、南秀夫が三代会長に就任した。
昭和26年より兵庫教区氷上支部の支部長として長年つとめた新之亮であったが、昭和40年老齢のために床に就くことが多くなり、45年4月23日、79才にて身上をお返ししたのである。思えば波瀾万丈の生涯であった。
しかし、最後まで信仰を捨てずに「因縁なら通らにゃならん。果さにゃならん」の御神言のまにまに、若き頃より会長として上級にあっては理事として理の親孝行一条につとめ、支部にあっては長年支部長としてつとめた。そして教会にあっては仕込み一条の理の親であった。その中にも細かい処に親心を運ぶ理の親でもあった。
半世紀もの長い間何度も血の涙を流しながらも只一条に親神の御心に近づかんとの信仰で通った生涯であった。また津田家にあっては、1人で津田家の因縁をひっかぶり、因縁果たしを生涯掛けて通った一信仰者でもあった。
<三代会長略歴>
・氏名及び生年月日
津田新之亮 明治23年11月25日生
・両親名及び続柄
津田清太郎 明治4年6月12日
ゆ う 明治6年7月 4日 長男
・学歴
明治33年3月 前山尋常小学校卒業
明治37年3月 前山高等小学校卒業
明治40年3月 福知山町私塾西垣成美塾にて
・会長就任年月日
大正 4年10月29日
・辞任年月日及び理由
昭和45年 4月23日 出直しのため
※教歴
明治40年 7月15日 教導職試補拝命
明治42年 1月10日 権訓導
大正 2年10月25日 授訓
大正 4年10月29日 三東宣教所三代所長拝命
昭和11年 1月26日 権大講義
昭和16年 4月16日 教区地方委員拝命
昭和40年 3月 氷上支部長辞職
昭和45年 4月23日 同所長辞任
昭和45年 4月23日 大教会准員拝命
<四代会長時代>
津田まさのは大正2年4月1日農業を営む余田俊三、ていの長女として氷上郡徳尾村138番地に生まれた。
幼少の頃、父・俊藏が精神病となり、母・ていが熱心に信仰していた。母ていは布教にも精を出し、おたすけに乞われるといそいそと出かけた。まさの9歳の時、ていが命の難しいおたすけにかかり「この病人をおたすけ下さいましたならば、まさのの命を差し上げます」と必死のお願いをして御守護頂いた。10年程経って18、9歳になったまさのが激しい腹痛と高熱で苦しんでいる枕元でおさづけを取り次ぎ掛け、「あ、そうや、お前の命は神様にお供したのや、どうぞ恨まずに死んでおくれ。」とていが言った。その後まさのはだんだんと御守護頂き、旧体に復したのであるが、この出来事がまさのの生涯を大きく変えた。それまでは女としての幸福を考え、胸をときめかしていたが、この時以来、一生独身で神様に使って頂き、神様の御用をさせて頂こうと心を固めたのである。
また兄・徳治が父の身上を御守護頂くべく別科に入り、別科を終えると鳥取に単独布教に向かったのである。徳治は布教地にて布教所を設け、途中で、丹鶴分教会・荒木すみゑを妻として迎え、15年間の単独布教をし、座敷牢に入れねばならぬ程の父の身上を御守護頂いたのである。まさのにとってこの兄の通り方によって神様の姿を見た様に思った。
こうして神様の御用をさせて頂きたい一念のまさのは別科を終えると上竹田宣教所にて住み込んだ。又、単独布教をしている兄の処に足を運び共に布教に励んだ事もあった。昭和10年8月12日上竹田宣教所の会長夫人・きみが産後の煩いにより出直されると、上級福知山支教会の足立津禰先生より、妻に出直され6人の子供を抱えた新之亮の許へ行ってくれと懇願され、さしもの一生独身でと決意していたまさのも自己の因縁ならと理の声を押し頂いて、周りの反対にも拘わらず上竹田宣教所の人となった。こうして自分の年とあまり違わぬ子供達の母として、又会長の妻として勤めていったのである。
又新之亮との間に子供をもうけたが、5人の中、3人までもが1才足らずで出直してしまった。一時は母親として悲しんだ。しかし幼少時にお供えした身体やという腹に染み通った信仰信念には母親の情も勝てなかった。
大東亜戦争中、新之亮(会長)が炭坑奉仕に行ってから信者周りの講社勤めなどに会長の代わりに行くようになった。その後も終戦となり新之亮が教会に帰ってからもまさのが外回りした。こうして会長に仕込みを受けて新之亮の晩年には全く会長と変わらぬ動きを続けた。
昭和42年頃より会長・新之亮は床に就く事が多くなり、昭和44年頃より病床に伏した。後継者・邦男はおぢばにて学業に就いていたので、教会には会長夫婦だけとなり、会長の看病と理の御用に献身的な日々を送る中、昭和45年4月23日、新之亮は信者達に慕われ乍ら出直した。
昭和45年7月26日御本部のお許しを頂き、まさのが四代会長に就任した。会長となったまさのは、まず、阪神間に出て一家を構えている先妻の子供達に信仰を移すべく腐心した。義理を思わせる懸命の仕込みと努力により講社を頂くようになった。次いで、布教に力を注ぎ、市島町美和に道を伸ばした。又新之亮の代に設けたりをふく布教所(余田徳治)についで上徳布教所(葛野美代治)を設けた。
昭和48年1月16日春多分教会の会長として長い間つとめ、上級上竹田分教会三代会長・新之亮の右腕として筆舌に尽くせぬ働きをした二代会長・村上りょうが慕われ惜しまれ乍ら出直した。
翌年、鴨庄分教会の二代会長南初蔵が出直した。南も鴨庄創立以来家財を納消に教会に住み込み、何度となく池の縁に立った程の道中を通り、たんのう一筋で通した会長であった。翌50年に南初蔵の妻・ますが後を追うように出直した。
春多分教会の二代会長出直の後、その後任問題で難航し、あまりに長く会長不在のままであった事を申し訳なく思い、後任会長を秀子と定め、昭和50年5月26日御本部よりお許しを頂いた。
まさのは就任以来教会に単身でおり、にをいがけ・おたすけに孤軍奮闘していたが、後継者・邦男がお屋敷勤め、上級教会、詰所勤めを終え、その後修養科終了してすぐに暫く布教に出ていたが、昭和52年4月に教会に帰る事になり、邦男と共に力を合わせ懸命に勤めることになる。しかしそれも束の間の昭和53年7月、中風の身上を頂戴した。しかし御守護頂き、以前の様に自由はきかないけれども、会長の勤めに懸命の毎日である。
まさのにとって、又信者にとって教会の上で喜んだは後継者・邦男の結婚である。小野市片山町1292番地の宇仁部属久下山分教会の三女・横山輝美を54年9月30日迎えた。一時は教会に会長1人という淋しい状態から3人と増え、今後の若夫婦の布教を楽しみに明るく勇んだ日々を送らして頂いている今日である。
<四代会長略歴>
・氏名及び生年月日
津田まさの 大正2年4月1日生
・両親名及び続柄
父 余田俊藏 母 てい 長女
てい
・会長就任年月日
昭和45年7月26日
※教歴
昭和 2年 3月25日 前山尋常高等小学校卒業
昭和 8年 7月10日 授訓
昭和10年11月25日 教師補名
昭和12年 1月19日 婦人会上竹田委員部長拝命
昭和45年 7月26日 上竹田分教会四代会長拝命
他に
氷上支部婦人会副委員長
以上、天理教上竹田分教会史より
